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Cumparsita

実はトップの写真、クンパルシータの内部である。

知っている人は知っていると思うが、京都四条木屋町界隈の猥雑とした雰囲気の中、異世界を展開する純喫茶である。


cmparsita1




タンゴのリズムと深い珈琲の香りが流れ、いつ御他界遊ばしても何ら疑問を生じさせない女主人がもてなしてくれる。

珈琲は待てど暮らせど出てこない。水すら出てこないところは流石にの何たるかを過不足無く理解している。

雰囲気がダダ的なのだ。


cumparsita2




この店は何も珈琲を飲むためだけに在るのではない。

独特の空間とタンゴの調べ、そして何より待っているという行為の間にゆっくりと本を読み烟草を燻らせ自由な思索を思う存分行なえるという、時間の贅がある。

珈琲が出てくるまでの平均待ち時間一時間から二時間
これを長いと取るか、短いと取るかは人それぞれだろう。


cumparsita3




ただぼくが云えることは、持っていた芥川の『侏儒の言葉』は読み了ってしまったことと、珈琲は相変わらず美味しかったことだけである。
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21:00 | 日常 | comments (2) | trackbacks (1) | edit | page top↑

ダダっときた

既成の概念や所謂常識と呼ばれるものそして文明の体系その全てを否定したと仮定して、若かしてそれが一体ダダと云うべきものだろうか。

否定するということは既にその内部に包含されていると考えるべきである。そうなると否定自体が肯定の反作用にしかならず畢竟その存在そのものをある部分では認可することと等しい。

ならば一体何を以ってダダとするのか。これがダダが誕生すると同時に抱えていた自己矛盾ではないだろうか。

存在そのものを否定してしまうとその否定の主体を喪失してしまった形骸のみが残留し、本質的な否定とは離れる。かといって肯定はそもそもの思想から離れるのであれば、一体どうするのか。

そこが其れダダの真骨頂であり、理論的に矛盾を起こそうが倫理的に乖離しようがお構い無し。

自己論理のみをその包含している存在から離れてぶちかますのではないか。

というよりそれ以外に方法はない。

では藝術性から離れた日常におけるダダとは何であろうか。そう考えること自体がすでにダダから離れるという不条理の中でわたしは今日も苦悶するのである。

嗚呼全く以って五里霧中
22:22 | ダダ | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

ダダイスム

ダダとは第一次大戦中、スイス・チューリッヒを起点として始まった反藝術を主唱する思想的潮流である。

その発生の背景には第一次大戦への反戦・厭戦の気分が強く、人間の理性の象徴である言語表現や既成の西洋文明文化への懐疑を持っていた。

既成の秩序常識に対する、否定攻撃破壊といった思想を特徴としており、ダダイスムに属する藝術家たちをダダイストとよぶ。

一説には詩人トリスタン・ツァラがたまたま「dada」という単語にナイフを突き立てたことから、こう呼ばれているとも。

まあ簡単にダダについての取扱説明書
では具体的にダダとは何だと言わないでくれ給え。それは各々が見出すものだ。

わたしはこの場所を通じてダダを復活させていきたいと願うものである。
ダダを体現できるように日々精進するものである。

しかしながらダダとは精進と縁遠くもある。
一体全体何をどうして良いのやらという心境もまたダダを生むに適した土壌である。

嗚呼またしても自分自身が行方不明
14:15 | ダダ | comments (0) | trackbacks (0) | edit | page top↑

はじめてのダダ

そういうわけで日々ダダを垂れ流す場所を拵えてみた。

拵えたはいいが残念なことに今はダダな気分でないので今日はダダとは何かを考えてみることにしよう。

うん。うそ。

急速に面倒になったのでそれはまた次の機会にしてしまいます。

嗚呼いつになったら真人間になれるのやら。
09:20 | ダダ | comments (2) | trackbacks (1) | edit | page top↑
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